こんにちは。
少し涼しくなってきましたね。
バンノリサーチ探偵紹介センター横浜・神奈川のブログ更新です
8月は少し色々と動きまして、時間がなかなかとれませんでした。久々の更新です。
「明智光秀」さんについて、素人的見解を勝手にずらずらと書き散らしていこうという前回からのブログ方針に変更はございません(笑
ではさっそく行きましょう!!
歴史的一大
イベント!!「本能寺の変」を考えるに、痛切(訂正:通説です笑)っぽくなってしまっているのは、「怨恨説」ですよね。
他にも「朝廷黒幕説」「四国長宋我部外交説」「光秀さんの野望説」「宣教師暗躍説」などがあるようです。
私がそれらの仮説を(簡単に)考察させていただいたところ…さっぱりわかりませんでした(おいおい
戦国時代というのは、現代に生きる私達からすれば、そりゃ〜厳しい世界であったのは言うまでもありません。
「もし私が戦国時代にタイム
スリップしたなら、歴史を知る自分は勝ち組にいくぜ!」
「天下とっちゃう?えへ。」
みたいな妄想を抱いている人もいるでしょう。私もそうでしたから(笑
しかし、もし戦国時代に我等が行ったとしても、漢文、古文を
マスターしていないと、我等は文字も読めない輩であり、武術・腕力に並々ならぬ自信がなければ、まずあっさり殺されちゃうかも。当時の農業、商業、人脈、しきたりを知らぬまま、ずけずけと、「俺は未来を知っているんだぜ!」と調子こいていると、相手にされないか、ほら吹きとして殺されるでしょう(笑
また「大名」は「家」であるから、現代の我等には窮屈なしがらみに見えるかもしれません。
何が言いたいのかというと、そんな現代の我等が当時の武将の心情を察するのは中々難しいのではないかと思うのです。
でも、勝手に察しますよ!光秀さん!!
ということで、まず「怨恨説」の根本、「信長」さんってどうよ?みたいなところから話を進めて行こうかと思います。
前置きとして、「歴史」というのは、当時の権力者によって都合よく書き留められ、伝えられた“もの”と私は考えています。それを踏まえて勝手に喋ります。
まず「光秀」さんの主君「信長」さんは、本当に家臣を蔑にして、蹴っ飛ばしたり、皆の前で恥かかせたりする人だったのか?
という辺りから色々といきましょう〜♪
戦国の世、大名が絶大な権力を持っていたのかと言われれば、それは否と言えると思います。家臣が主君を殺す下克上の時代。大名家当主は、家臣にかなり気をかけていたそうです。
「
比叡山を焼き討ちし、皆殺しにしたり、家臣を蹴飛ばしたりそりゃ〜ひどい殿様でした〜いつ自分に来るかビクビクしてたわい」
というのが信長さんのイメージでしょうか。「比叡山焼き討ち皆殺し」は当時の人にとってはそりゃ恐ろしいものだと思います。仏に仕えるお坊さん、女性、
子供も殺したそうですからね。現代の我等が聞いてもそこまでしなくても〜と思うところはあるでしょう。
でも当時は必要だったのかもしれません。当時はお坊さんでも武器をもって自衛、必要とあらば一揆を起こし攻めてくるし、僧とは名ばかりの怠惰な生活をしていた集団であった、という話もあるくらいの背景でありますから。
その殺しまくったイメージが「信長」さんについていますよね〜。残虐である!というね。
しかしながら、信長さんのやったことを見てみると、当時の時代にとっては「革新」的であったのは間違いないようです。
では、信長さんの実績や能力的なことをずらりと挙げてみましょう〜
「兵農分離政策」、「長槍の装備」「鉄砲隊を軍隊に積極的に取り入れた」「関所撤廃しての楽市楽座」「家臣を大名へ!」「身分に関係なく取り立てる」「失敗しても挽回の
チャンスを必ず与える」「戦では常に前線に立つ」「情報を制し、巧みに情報操作をした高度な宣伝術」「家臣の奥さんからの陳情にも丁寧な手紙を送る木目の細かさ」「地球は丸かった、日本は小っちゃかったことをすぐ理解した柔軟さ」「先の先を読み、実行に移す天才性(の為、周りからは理解されにくかったとか)」などなど。
やはり日本史上最高位の、合理的で天才的な人物であるかと思います。
そうです。上記にずらりと並べました中に「家臣の夫婦喧嘩をたしなめた手紙」があります。残虐で家臣を蔑にする人が、そんな気のきいた手紙書くかい?て私は思います。
政治、外交、軍事、戦略、戦術において、一人でなんでもこなしてしまうのが信長さんであり、その為、家臣からは畏敬の目で見られていたようですね。
そんな信長さんに見出され、新参者にも関わらず一番はじめに一城の主になったのが、「光秀」さんです。信長さんの新しい国造り(まず壊してから再編)、改革を身近で断行し、力を存分に発揮した「光秀」さんは、現代の「会社」で言えば、専務取締役の社長の片腕。
天才的な社長を「理解」し仕事をして実績は他と比類なしとする「光秀」さんは、すごい「出来る人」であったのは言うまでもないでしょう。
「光秀」さんが治めた「近江坂本、丹波亀山」は、信長さんの本拠「安土城」に一番近く、他の重臣達と明らかに違う「一番信頼のおける家臣」としての待遇であったのではないかと私は思います。
また、教養人であった「光秀」さんを朝廷と「織田家」の橋渡し的な位置に配置していたようで、「坂本城」の位置は
京都に近く合理的です。
筆頭家老の「勝家」さん、出世頭の「秀吉」さんよりも信頼していたのが「光秀」さんであろうと思われます。
私がそんな下克上の世界にいて、自分の身近におく人はどういう人かを考えれば、身内と信頼のおける人のみ、と考えます。
本能寺の変の起きる間際の、近畿地方にはわずかな兵しかなく、坂本の光秀さんだけ1万超えの兵を持っていたこと、本能寺に
宿泊する際の信長さんのお供の数が少ないことを考えれば、「信長」さんの「光秀」さんへの信用がどれ程のものであったのか頷けるでしょう。
なので、「怨恨・不仲説」私はこれまったくないと解釈しています。
理由は上記のように「信長」さんと「光秀」さんはお互いを理解し合う仲であったと思料されます。
また、戦国時代における「家」というのはとても大きな割合をしめます。「明智」家とて例外ではなく、ただ
上司が嫌で、自分いじめられたから殺しちゃえ!
みたいな軽い考えで「明智」家一族(家臣とその家族も考えればかなりの人数です)が滅ぶかもしれない主君殺しを、「光秀」さんがするとは考えられない。
残虐性とか怨恨ぽくもっていったのは、次の天下人「秀吉」さんの情報操作ではないかと私は思います。
何か壮大な後ろ盾が「光秀」さんにあった場合、それらを表沙汰にしない為、角立てず丸く収まるというのであれば、「怨恨」じゃ!私的なことで謀反しおったのじゃ!!などに仕立て挙げることもあったかもしれませんね。
あとで、「信長公は光秀に対し殴る蹴る!まげをむんずと掴んで皆の前で恥かかせられていたのぉ〜」など風潮すればいいわけですし。
さて長くなりましたが、ではあなたはどの説がしっくりくるのかね? という質問には、また次回お話しましょう!! そうです。続きます!(笑
次回!!
バンノリサーチ探偵紹介センター横浜・神奈川センター長が、「明智光秀」さんについてまだまだ好き勝手しゃべります!のコーナーです。お楽しみに!?(笑
※ちと修正しました♪